2022.1.7

嗅覚が教えてくれる、
人体のリスクと希望。

プロフィール

竹内春樹 特任准教授

  • 東京大学大学院薬学系研究科
  • 薬品作用学教室

大学院時代から一貫して嗅覚系をモデルシステムとした脳神経回路形成の解明に取り組み、『Science』、『Cell』をはじめとするトップジャーナルに研究成果を発表。神経回路形成における新しいルール発見に貢献した。嗅覚メカニズムの専門家というだけでなく、香りにも精通すべくアロマテラピー検定1級を取得。

全遺伝子の約2%。嗅覚の存在意義を探して

― 嗅覚研究のどのような点に、やりがいや面白さを感じていらっしゃいますか。

人間が持つ五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)の中で、どれか一つ「不要な器官を選ぶとしたら?」と聞かれたら、何と答えますか? 大抵の人は「嗅覚」を選ぶのではないでしょうか。ですが、遺伝子の数からいえば、嗅覚受容体の遺伝子は2万数千個あるといわれているヒトの全遺伝子の約2%(300~400個)。光を感知する視覚の遺伝子が4~6個、甘みや苦みを感じる味覚の遺伝子もせいぜい数10個なので、人間が生存するうえで嗅覚がいかに重要な役割を担っているかが分かると思います。それにも関わらず軽視されがちなため、「嗅覚の存在意義を科学的に証明したい」という想いが研究のモチベーションになっています。

ただ、自分の興味関心に沿った研究ばかりしていると、現実社会とのつながりを見失いがちです。そうならないために、世の中の課題解決や日常生活での有効活用という視点で研究内容を還元していくことも同時に考えています。最近では、スギの香りに含まれるフィトンチッド成分がよい睡眠をもたらすという効果検証を行い、従来は廃棄されることの多かったスギの赤身(フィトンチッドが多く含まれる芯の部分)を特殊な技術を用いて住宅建材にし、快適な住空間の実現と廃材のアップサイクルに貢献しました。住宅メーカーの知人との会話から生まれたプロジェクトでしたが、意匠性と機能性に優れた商品開発が認められ、2020年のグッドデザイン賞を受賞。嗅覚研究の実用性を示した一例です。

嗅覚研究者にとってのアロマテラピー検定とは

― 嗅覚研究者になられてからアロマテラピー検定を取得されています。その理由を教えてください。

もともとは神経細胞や遺伝子組成に興味があって大学院へ進んだのですが、入った研究室の研究対象が嗅覚の神経回路だったため、自然と嗅覚を究めることになりました。そうなると匂いのメカニズムには詳しいのですが、実際の「香り」には疎くて。ビジネスや医療で技術協力をする場合、嗅覚研究者として香りにもある程度の知識や素養が必要だと痛感し、アロマテラピー検定を取得しました。


東京大学薬学系研究科附属薬用植物園にて。右は同大学院 薬学系研究科 折原 裕 准教授

試験会場で驚いたのは、圧倒的に女性の受験者が多かったことです。美容に関連した資格ということもあると思いますが、神経細胞や遺伝子レベルで考えると「香りへの反応」に明確な性差はないはずなので、興味深く感じました。今後、職種やライフスタイルなどで社会通念上のジェンダーレス化が進めば、アロマの世界で活躍する男性も増えてくるのではないでしょうか。

私自身、日常生活に香り(精油)を取り入れてみると、確かにラベンダーの香りでよく眠れたり、ローズマリーの香りで集中力がアップしたり、香りの持つ力を実感しました。一方、さまざまなメディアで触れるアロマの情報は玉石混交で、研究者として危機感を抱きます。特に、個人のSNSで発信されるものの中には科学的根拠のないような情報が散見されるので、使用者自らが正しい知識を習得することの重要性を改めて認識しました。

古来保存されてきた香りから、人類の未来を考える

― いま先生が注目されている、香りや嗅覚研究に関するトピックはどのようなものですか。

認知症予防は世界的にも注目されているトピックで、少子高齢化が進む日本では特に取り組みが急がれています。嗅覚機能の低下を指標として認知症の進行を計ることはできますが、「香りによる刺激で予防できるか」という点は未だ証明できていません。「将来、認知症になるリスクが高い」と診断されたとしても、進んで脳の外科手術を受ける人は恐らくまれでしょう。認知症の主な原因と考えられる脳の酸化は、ある程度内服薬で抑えることも可能ですが、薬は血液に入り脳全体に影響を及ぼします。その点、香りは嗅覚路から直接脳の特定部分、記憶や認知機能を司る海馬に働きかけるため、ピンポイントでケアできるのではないかと期待されています。

ただ、そもそも香りを認識する嗅覚受容体の数や種類には個体差があり、どの香りをどう使ったらどんな作用があるのか、疫学的な調査が難しいのです。そこで、認知症に効く「新しい香り」を探すよりも、歴史的に保存されてきた香りの人体への有用性を見直し、そこから認知症との関連を探そうというアイデアにたどり着きました。

古代エジプトでミイラ作りに用いられたといわれる没薬(ミルラ)や乳香(フランキンセンス)、古くから日本の香道で使われてきた白檀(サンダルウッド)など、人類は文明を発達させるとともに、香りの文化を発展させてきました。その中でも、特に薬用植物など健康に寄与したと思われるものを中心に香り成分を調べ、認知症予防の新しいアプローチを見出したいと考えています。

※記事はすべて取材当時の情報です。

プロフィール

竹内春樹 特任准教授

  • 東京大学大学院薬学系研究科
  • 薬品作用学教室

大学院時代から一貫して嗅覚系をモデルシステムとした脳神経回路形成の解明に取り組み、『Science』、『Cell』をはじめとするトップジャーナルに研究成果を発表。神経回路形成における新しいルール発見に貢献した。嗅覚メカニズムの専門家というだけでなく、香りにも精通すべくアロマテラピー検定1級を取得。

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